まわたのきもち 第1号(2023.1.20)

 生まれて初めて、エッセイと呼ばれるものに挑戦しようと思う。今年は元日に、イデア通信を週に1号ずつ発行していくことも決意したから、二重の決意をしてみたことになる。形式張ることが嫌いな僕でも、自由なエッセイなら何とか書いていけるのではないか、と思った次第。

 僕は子どもの頃から、文章を書くことだけは好きだった。算数の計算はもちろん、みんなが張り切っている図工の製作も、みんながはしゃぐ理科の実験すらも好きではなかった。唯一、好きなのは国語の、しかも年に何回か節目の時に課される作文の時間。それに、小学6年生の時に歴史が加わり、社会と国語“だけ”が僕の好きな教科となった。

 それから大学の学部生・院生時代を経て、教育関係の専門職として職を得た僕は、論文というものの書き方を学び、文章を通して学んだ成果を発表する機会も得た。論文というものは、客観性を担保するために書き方はルールでがんじがらめ。もちろん僕の性には合わなかった。それでもやっぱり、学会でお褒めの言葉を頂いたり、僕の論文が他の論文に引用されたりした時は、例えそれが僕の考えに批判的な見解であったとしても、すごく嬉しかった。性に合わない論文の執筆というものが、いつしか人に読まれるための文章を書くことと同義になっていった。

 そして今、民間教育に身を置くようになり、その論文を執筆するということは全く無くなった(もちろん、僕が書かなくなっただけで、必要なものは読んではいる)。それでもこうやって、エッセイという自由な形で学習塾イデアの理念や、塾長の僕の考えを文章にして残し、公表していこうと思ったのには、いくつかわけがある。

 そのひとつは、自分自身の考えをエッセイにして、保護者の皆様に読んでもらいたい、という思いである。保護者の皆様は、大切な我が子を預ける先として、学習塾イデアを選択してくださった。イデアとしては、何にも実績がないのにも関わらず。だからこそ、塾長の僕が日々どんな考えや思いを持って子どもたちに接しているのか、その一端をエッセイでお知らせしようと思った。これは言ってみれば、僕なりの、“今”に対する責任の果たし方。

 そして、もうひとつ。今、イデアに通っている子たちには、口がすっぱくなるほど、「正しい言葉を使いなさい」と伝えている。言語力は、各教科の土台となるばかりでなく、生きていく上での基本となるからだ。だから、イデアの子たちは、とにかく国語を勉強する。たくさんの文を読み、たくさんの文を書く。その繰り返しが、子どもたちの学力の土台を作っていき、人生の幅を広げていく。だから、今の子どもたちが大きくなり、僕が書くエッセイを読めるくらいに成長した時に、「イデアの塾長は、国語、国語とうるさかったけど、こんなことを考えていたのか」と、何か感じてもらえるものがあればいいなと思う。そのために、少しずつ書き溜めていこうと思った。これは、“未来”への責任とでも言えるのかもしれない。

 そんな動機で始めるこのエッセイの発行は、なんとか月に2回のペースを死守したい。