まわたのきもち 第3号(2023.2.16)

   足元を見る。

 イデアにある『岩波国語辞典 第六版』には、「弱みを見透かす」とある。イデアの小学生が使っている三省堂の『例解 小学国語辞典』には、主体が変わって“足元を見られる”の解説が載っていて、「弱いところを見抜かれる」とある。どちらにしても、ポジティブな意味ではないらしい。

 似たような言葉に、仏教用語の「脚下(きゃっか)を看(み)る」というものがある。僕の実家は曹洞宗のお寺の檀家で、4年前に亡くなった僕の祖母は、早くに夫(僕の祖父)を亡くしたこともあってか、仏教に対して非常に信心深かった(幸か不幸か、僕は祖母の影響はあまり受けずに今もって信仰心は薄いようだ)。そして、そのお寺の住職さんには非常に可愛がってもらったものだった。

 この菩提寺の宗派である曹洞宗は、黄檗宗臨済宗とともに「日本の三大禅宗」などとも言われる。この3つの宗派が共通して大切にしていることは、「座禅」という修行である。

 座禅とは、正しい姿勢で座って精神を統一する修行のことを言い、その最中は完全に目を閉じることはせずに半開きにして、足元に視線を向ける。もう何年も前になるが、子どもの頃に可愛がってもらった住職さんと、この座禅の話になったことがある。

 「禅語では、“己が立脚しているところを見失わない”という意味を指す『脚下を看る』という言葉があって、それを体現するひとつの形が座禅という修行だ」という内容のお話しだった。「足元を見る」とは、“人の弱みを見透かす"ことを指す言葉だが、「脚下を看る」とは、“自分自身と正対する”ことを指すのであり、この2つの言葉は、いわば正反対の意味らしい。

 「人のせいにするんじゃない」とは、よく大人が子どもに対して言う言葉のひとつだが、実は、大人でもそれは難しい。自らを顧みる前に人の批判をしたり、自らが所属する組織を内側から検証することなく、外側の組織の「足元を見て」批判をし、自らの組織を正当化したり(あるいは、自らの組織の欠点をなかったことにしたり)、自分の環境を変えられない理由を、自分以外に求めたり。しかも、SNSをはじめとした情報発信ツールが発達した現代社会では、それを一方的に、いとも簡単に自らを正当化して発信できてしまう。SNSで声高に子どもの人権を守れと叫ぶ大人が、自分が関わる子どもの人権を尊重しているか、という自省をしないことは、よくある話である。

 その点、イデアの子どもたちは素直だ。勉強していて、わからないことを他人のせいにはしない。中学生は特に、勉強が苦手であることを環境のせいにしたり、他の要因のせいにはしない。小学生はもちろん喧嘩もするが、そのほとんどは、考えと考えのぶつかり合いであり、そんな時は、大人はそっと見守っている。考えと考えのぶつかり合いなので、どちらが悪いという問題でもなく、話し合って解決していく。たとえ1年生でも、その術を身につけていってもらおうと思っている。

 「脚下を看よ」と、子どもたちの素直さが、この現代社会に生きる大人たちに教えてくれているのかもしれない。

まわたのきもち 第2号(2023.2.3)

 イタチごっこ

 スマホと子どもたちの関係を見て、いつもそう思う。

 私ごとながら、高校2年生の時、2つ上の先輩とお付き合いをしたことがあった。その先輩は保育士を目指して道内のある短大に進学して故郷を離れたので、いわゆる遠距離恋愛だった。僕の高校時代は、携帯電話が高校生にも普及し始めた頃で、クラスではそれを持っている人間と、持っていない人間が半々くらい。僕は後者で、お付き合いをしたその先輩との連絡手段は、家の電話を使って話しをするか、手紙だった。家の電話なんて何分も独占してられないから、主な連絡手段は手紙。親に頼み込み、週に一度、日曜日の夜に30分だけ電話で話せる時間があった。

 相手は今何を思っているのか、今日はどんな1日だったのか、今どんなことに悩み、どんなことを楽しんでいるのか。そんなことを思いながら手紙を書き、投函した後は、返事が来るのは早くても1週間ほど後。でも、手紙を書いている時間は何物にも変えられない時間で、返事を今日か今日かと待つ毎日。学校から帰ると、自分の部屋の机の上に置かれた、相手の手紙の封を切る瞬間のドキドキ感を思い出すと、僕も一端に青春を謳歌していたんだな、なんて気にもなる。

 “文通”なんて言葉は、今や死語だろう。スマホがあれば、いつでも電話ができるし、LINEでメッセージのやり取りだっていつでもできる。手紙を出して返事が来るのが1週間後、なんて時間をかけずにコミュニケーションをとることができる。すごく便利な世の中になったし、僕もスマホがなければ仕事にならない。でも、便利さと引き換えに、相手の気持ちに思いを馳せ、一つひとつ丁寧に言葉を選ぶという、とても楽しく、とても大切な“相手を尊ぶ”という時間は、携帯電話の普及とともに失われていったのだ。LINEで、あるいはSNSで、吟味されない言葉が巷に溢れ出て、時に人を傷つける。そして動画の視聴やゲームは、何時間もの子どもの時間を浪費させる。

 まだ捜査中なので軽々なことは言えないが、静岡県牧之原市で起こった事件は、16歳の娘と母とのスマホのトラブルだったという。「殺人事件の動機は、そのほとんどが金銭トラブルか恋愛問題」と言われていたことも、もう過去になってしまったのかもしれない。

 僕はよく、保護者の方々に「今後、生活の中でスマホが消えてなくなることはないので、与えないことでも取り上げることでもなく、スマホと上手く付き合っていく術を身につけさせることが大切です」と申し上げている。上手くスマホと付き合えることができれば、何の問題もないのだ。しかしあえて、賛否両論があるであろうことを前提にいう。自己抑制が効かないなら、スマホは持たせるべきではない。“ルールを守り、やるべきことの順序を守れる”というのが、スマホを所持できる最低限で、かつ最大の条件なのではないか。

 そんなことを考えた今日、僕はスマホ小沢征爾が指揮するウィーン・フィルの「ラデツキー行進曲」を聴きながら、高校生に古文の課題として出した問題を解いてみた。すごく捗る。やっぱり、僕にもスマホは必要なようだ。

まわたのきもち 第1号(2023.1.20)

 生まれて初めて、エッセイと呼ばれるものに挑戦しようと思う。今年は元日に、イデア通信を週に1号ずつ発行していくことも決意したから、二重の決意をしてみたことになる。形式張ることが嫌いな僕でも、自由なエッセイなら何とか書いていけるのではないか、と思った次第。

 僕は子どもの頃から、文章を書くことだけは好きだった。算数の計算はもちろん、みんなが張り切っている図工の製作も、みんながはしゃぐ理科の実験すらも好きではなかった。唯一、好きなのは国語の、しかも年に何回か節目の時に課される作文の時間。それに、小学6年生の時に歴史が加わり、社会と国語“だけ”が僕の好きな教科となった。

 それから大学の学部生・院生時代を経て、教育関係の専門職として職を得た僕は、論文というものの書き方を学び、文章を通して学んだ成果を発表する機会も得た。論文というものは、客観性を担保するために書き方はルールでがんじがらめ。もちろん僕の性には合わなかった。それでもやっぱり、学会でお褒めの言葉を頂いたり、僕の論文が他の論文に引用されたりした時は、例えそれが僕の考えに批判的な見解であったとしても、すごく嬉しかった。性に合わない論文の執筆というものが、いつしか人に読まれるための文章を書くことと同義になっていった。

 そして今、民間教育に身を置くようになり、その論文を執筆するということは全く無くなった(もちろん、僕が書かなくなっただけで、必要なものは読んではいる)。それでもこうやって、エッセイという自由な形で学習塾イデアの理念や、塾長の僕の考えを文章にして残し、公表していこうと思ったのには、いくつかわけがある。

 そのひとつは、自分自身の考えをエッセイにして、保護者の皆様に読んでもらいたい、という思いである。保護者の皆様は、大切な我が子を預ける先として、学習塾イデアを選択してくださった。イデアとしては、何にも実績がないのにも関わらず。だからこそ、塾長の僕が日々どんな考えや思いを持って子どもたちに接しているのか、その一端をエッセイでお知らせしようと思った。これは言ってみれば、僕なりの、“今”に対する責任の果たし方。

 そして、もうひとつ。今、イデアに通っている子たちには、口がすっぱくなるほど、「正しい言葉を使いなさい」と伝えている。言語力は、各教科の土台となるばかりでなく、生きていく上での基本となるからだ。だから、イデアの子たちは、とにかく国語を勉強する。たくさんの文を読み、たくさんの文を書く。その繰り返しが、子どもたちの学力の土台を作っていき、人生の幅を広げていく。だから、今の子どもたちが大きくなり、僕が書くエッセイを読めるくらいに成長した時に、「イデアの塾長は、国語、国語とうるさかったけど、こんなことを考えていたのか」と、何か感じてもらえるものがあればいいなと思う。そのために、少しずつ書き溜めていこうと思った。これは、“未来”への責任とでも言えるのかもしれない。

 そんな動機で始めるこのエッセイの発行は、なんとか月に2回のペースを死守したい。